仕事が人生とは言わないけれど
最近気づいたことがある。
仕事ぶりは生き様を表していると。
どうにもこうにも許せないことが起きている。
前任者の仕事っぷりがどうだったかは2週間の引継ぎ期間では知りようもないが、少なくとも、引継ぎの説明と残された資料からはズボラさばかり感じられる。
にもかかわらず、長年勤めていた前任者が絶賛されているため、その不満を声に出せない。それがとても腹に据えかねる。
正直、このずさんな引継ぎで自分は良くやっていると褒めてあげたい。誰も褒めてくれないから(そりゃ誰も現状を知らないからね)、せめてこんな時くらいは自分で自分を褒めてあげたい。
10年勤めた人間が絶賛されるのは当たり前だ。
「彼女に聞けば分かった」って、10年やってれば当たり前だ。
だが、裏を返せば、「彼女しか分からない」業務が多すぎた。そしてそれらを、前任者である『彼女』は全て記録に残すことなく辞めて行った。いわゆる「抱え落ち」だ。
「引継ぎ業務リスト」は確かに受け取った。
でもそれは「業務の名称」だけ。具体的な手順も注意事項も何も無い。
ありないだろ。
いや、ある意味では「ありえる」状況だ。
急に辞めることだってある。会社に仕返ししようとわざと抱え落ちする奴もいる。そもそも引継ぎに自分の時間を割きたくない人がいるのも分かる。
ただ、彼女の中にそれらの要素は見い出せなかったりだからこそ、彼女自身の「業務への取り組み方」に苦い顔になる。
自分が積み上げてきたことを客観的に判断し、それを次に繋ぐ努力をしなかった点。
日々の業務をその場の勢いや、己の記憶だけで処理してきただろう点。(資料を遡っても参考にならない原因)
10年勤めあげた人間がその年月の中で1度もマニュアルに残そうとしなかった点。
いつ頃に辞める決意をしたかは知らないが、少なくとも一緒に仕事ができないことを見越して年に数回だけの業務(それも彼女しかしていない業務)をまとめようとしなかった点。
それらにとても腹が立つ。
そしてそんな現状が知られていないことも、それに苦しめられている現状に声をあげられない雰囲気なのも、本当に腹が立つ。
まあ、声をあげないのも愚痴をはかないのも、「皆にやな奴と思われたくないから」という理由だから自分もたいがい救えない。
大多数が絶賛する人物を、たいして関わっていない人間が「いや、彼女は酷いですよ」なんて言えない。そんなやな奴になりたくない。そんな見栄と意地。
5ヶ月。
長くて短いこの期間、ひとりで踏ん張ってきた。だがそろそろ限界がきている。物理的にも、精神的にも。
1年間。
仕事の流れを把握するにはそのくらい時間が必要だと皆は励ましてくれる。それは自分でも重々承知だ。けれども、圧倒的に資料がなさすぎる。手順がなさすぎる。フォルダ名もぐちゃぐちゃで、年度の抜けも意図的なのかが分からない。
今。
必死に業務記録を書き起こしている。
来年の自分のために。自分が急に死んでも困らないように。
2年後。
先のことは分からない。目標も思い描けない。
けれどもこれだけは言える。
きっと、マニュアルを作っている。
誰かに引き継ぐためじゃない。自分が効率よく働くためだ。年に数回の仕事にいちいち頭を悩ませたくない。
「明日も来年も、ずっとこの会社で働く」
そう考えてモチベーションを保つ。
「来年もしくは明日、自分はいないかもしれない」
そんな気持ちで丁寧に業務に関わる。
これが理想であり、信念だ。
自分なりの信念を貫いて、自分なりの理想で生きていくしかない。
それが今の自分に残された「不満を乗り越えていく」唯一の方法だと思う。
辞めた人間に苛まれるのは懲り懲りだ。
忘れるためには、思い出さなくていいように自分の基盤を整えていくしかない。
めげずに、しょげずに、くさらずに。
ひとつひとつ、一歩一歩進んでいこう。