あるきづき

これまで歩いてきた人生と、これから歩いていく人生で気づいたことを綴っていくブログ 〜ご飯と本と、時々、映画〜

空っぽゆえの『いま、ここ』

心が抜け殻のようだ。

 

怒りや悲しみで心が壊れているのではなく、投げやりな気持ちになっているのではなく、ただただ、心が空っぽになっている。

穴があいたとか、雨漏りしているとかでもなく、ただただ空っぽ。

 

ずっと気持ちを張り詰めて頑張っていた。

具体的には7ヶ月間。

心が折そうな時もあった。捻挫した心を無理やり補強して、騙し騙し走ってきた。

笑っていればなんとかなると思って、嘘でも笑顔と冗談振りまいて周りも自分も盛り上げてきた。

その結果が、この仕打ち、か。

 

結局は、無理をしていたということだろう。

「出来ないことを出来ないといい、無理な時は無理だといい、声を上げて周りに助けを求められるようにする」というのを意識してやってみたけど、そのせいで生まれた誤解に傷ついた。本当の自分じゃないことを「あなたはこうなるからわかりやすいね」と言われたことに傷ついた。

本来の自分は、つらいとか苦しいとか全部抱え込んでしまうから、ひとつ大人になる為にもそれを表現したのに、それを『本来の自分』として捉えられたことが、ただただ悲しい。

ある意味では、試みは成功したと言えるのだろう。周りに分かるように表現したことがちゃんと伝わっていたのだから。でもなんだかそれは、自分がなりたい自分ではないと思ってしまった。周りからかけられた言葉、貼られたレッテルに強い抵抗感を覚えた。

こんなことなら、無理をしなければよかった。

以前の様に黙々と、淡々と仕事をしていればよかった。

 

声をかけられて助かったこともある。でも、何も解決しなかったこともある。何も解決できないのに声をかけられることに対して「ありがたい」よりも「鬱陶しい」と思ってしまったこともある。そしてそんなことを思う自分に罪悪感が湧いたりもした。

そんな諸々を考慮して、このままそんなことを続けることに意味はあるのだろうか?

本当の自分を偽って、気を遣って、心をすり減らして、挙句の果てに傷ついて。

馬鹿馬鹿しいとか面倒くさいとかどうでもいいとかでもなく、なんだかもう、空っぽだ。

 

張り詰めていた糸がぷつりと切れて、心がぺしゃんこに潰れて、なんにも残っていないのが今の自分。

「笑えない」んじゃなくて、「笑う」という行為が抜け落ちた。

「腹が立たなくなった」んじゃなくて、「何も感じなくなった」ので腹も立たない。

 

今までしていた気遣いや笑顔が急に出来なくなって周りに気を使わせてしまうのは目に見えている。でもその反面、怒りや悲しみを感じない凪状態が楽なのも事実だ。何もしたくない。ただ淡々とやるべき事だけこなしていきたい。

周りに気を使えない自己中心的な人間になるか、はたまた自分の心に素直に生きることを選ぶか。

 

どちらが正解かはわからないが、今はただ、『いま』を生ききる力しか残っていない。

だがそれもまた正解かもしれない。

『いま、ここ』を生きているのだから。