じゆうとは、てはなし
ここ数年、読んだ本をどんどん手放せるようになった。
昔も今も『本』という存在そのものが大好きで、背表紙を眺めているだけでも幸せだったのだが、一方で、狭い部屋を圧迫する本の重量感に耐えられなくもあった。
辛い時に支えてくれた本、衝撃的な出会いをした本、読み返す度に気づきがある本、内容を忘れてしまったから読み直したい本…。
そんな本たちを手放すことなど全く考えられなかったのだが、ミニマリズムを実践していく中で、ある時ふと「あ、手放しても大丈夫だ」と思える瞬間が訪れた。
『本も他のモノと同じで、手放したからといって想い出までが無くなる訳ではない。
読んで、感じて、考えたことは、確実に自分の一部となっている。』
それが理解できた時、手放す決心がついた。
本にしろモノにしろ、「得るべきものは全て受け取った。自分の糧となった」と思えると、執着がすぅっと消えていく。
もしかしたらこれは、人生においても同じなのかもしれない。
過去の栄光や後悔、人間関係やチャンスなど、無意識にしがみついてることはたくさんある。
それらを「ご縁が切れた」と受け入れることが出来た時、あらゆることから解放されるのだろう。
ちなみに、本を手放すようになってから読む幅が広がった。これまでなら読まなかったであろう分野にも気軽に手を出せるようになった。
恐らく、「ずっと所属しなければならない」という前提がなくなったからだと思う。
「〜ねばならない」から解放されると、身構えないでいられる。身構えないでいると、自由でいられる。
「〜ねばならない」の殻は、手放すことで破られる。手放すことは、自由そのものである。
モノそのものが自分でないように、過去そのものが自分ではない。
モノを手放しても自分が消えないように、過去を手放しても自分は消えない。
だったらいろいろ手放して、自由にこれからを生きていこう。
受け入れて、手放して、自由に生きていこう。