坂の途中の休憩所
はてなブログから「1年前の記事を振り返りませんか?」とメールがきた。
偶然にもアイコンの写真を使っている記事で、『幸せになる一歩を踏み出していると信じて。』なんて言葉で締めくくっていた。
1年間、いろいろなことがあった。大きく変わった。
相変わらずブログは不定期だし、テーマは迷走しているし、文章も上達してはいない。
でも、「こんな自分でもまあいいか」と許容できるようになったのは大きな変化だ。
一歩一歩踏みしめていくことも重要だけれども、たまには立ち止まって、踏み固めてきた道を振り返ることも大切なのだろう。
踏み外さないよう足元を見続けていたら疲れてしまうから。
顔を上げて、遠くを見て、肩の力を抜いて、景色を楽しんで……。
そうしてまた歩き続ける英気を養っていこう。
肩肘張らずに、自然体でいこう。
「悲しい」も「つらい」も自分の一部。
見ないふりしなくていい。
なかったことにしなくていい。
『重たいもの』を持っているのを自覚していればこそ、立ち止まってその重荷を降ろすことが出来るのだから。
苦しんでいる今の自分を認めてあげることが、身軽に生きていく第一歩だと信じて。
真面目と不真面目の相互理解
『真面目な人ほど病んでしまう』、まさにその通りだとつくづく思う。
周りへの迷惑を考えてしまう。
延長線上にいる誰かへの影響を考えすぎてしまう。
手を抜かれた雑な仕事を自分のところで抱え込んでしまう。整えてからじゃないと手放せないから。
そうやってどんどんキャパを超えても頑張っているとことろに「そんなに真面目にやらなくていいよ」なんて適当な言葉を、まさにその元凶を生み出している張本人から言われる。
……こんな状況で心が折れない人間がいるだろうか。気力が尽きない人間がいるだろうか。
もしいるのならば、その人はそもそもこんな状況に陥っていない。ここに至る過程のどこかで、ちゃんと助けを呼べているはずだ。無理だと声をあげられているはずだ。
どうすればいいのだろうか。
真面目にやってつぶれるくらいなら、少し手を抜いてでも騙し騙し生きていく方がいいのは分かっている。分かっているけれど、できない。それがまた苦しい。
八方塞がりな気持ちになるし、実際問題、現実的にも八方塞がりだ。
「明日やればいい」と言う人がいる。
でも明日やるのは自分だ。その人がやってくれるわけではない。そうやって丸投げされてきたものが手元にある仕事なのだから。
「とりあえずテキトーにやっておけば?」と言う人がいる。
でも結局何か起きた時に対処するのは自分だ。そしてそんな事に限って余計な手間がかかる大きな問題になって返ってくる。それを対処できる技量が今の自分にはないのが分かっているから適当にしたくない。対処できる小さな問題の時になんとかしておきたい。
そうした考えの違いがじわじわと心を削り、気力を削ぎ、精神を崩壊させてくる。
そんな毎日。
こんな状況から抜け出したい。抜け出すためには何をすればいいのかを教えてほしい。
余分なことを考えず、とにかく手を動かしていれば終わると信じて頑張っているが、終わる気配が全然ない。
無心に行動し続ける方がいいのか、それとも一度立ち止まって自分の在り方を考え直す方がいいのか。それが全く分からないのが辛い。
考えても、考えようとしても現状の元凶へ対する怒りが溢れてくるだけ。そしてその怒りで効率が落ちている自分にもまた苛立つだけ。
この負のスパイラルから抜け出すには『真面目すぎる』のをやめるしかなような気もするし、その『真面目』を投げ出したら自分の在り方に反する気もする。
折衷案が見つからない苦しい日々だが、とにかく気の済むまで悩んで、もがいて、少しずつでもいいからじわじわとでも歩み続けていくしかないのだろうな。
それが正解かは分からないが、それが『自分の生き方』だと思うなら、信じて生きていくしか今の自分が納得できる道がないのだから。
分かれ道がきたら、その時に考えよう。
仕事が人生とは言わないけれど
最近気づいたことがある。
仕事ぶりは生き様を表していると。
どうにもこうにも許せないことが起きている。
前任者の仕事っぷりがどうだったかは2週間の引継ぎ期間では知りようもないが、少なくとも、引継ぎの説明と残された資料からはズボラさばかり感じられる。
にもかかわらず、長年勤めていた前任者が絶賛されているため、その不満を声に出せない。それがとても腹に据えかねる。
正直、このずさんな引継ぎで自分は良くやっていると褒めてあげたい。誰も褒めてくれないから(そりゃ誰も現状を知らないからね)、せめてこんな時くらいは自分で自分を褒めてあげたい。
10年勤めた人間が絶賛されるのは当たり前だ。
「彼女に聞けば分かった」って、10年やってれば当たり前だ。
だが、裏を返せば、「彼女しか分からない」業務が多すぎた。そしてそれらを、前任者である『彼女』は全て記録に残すことなく辞めて行った。いわゆる「抱え落ち」だ。
「引継ぎ業務リスト」は確かに受け取った。
でもそれは「業務の名称」だけ。具体的な手順も注意事項も何も無い。
ありないだろ。
いや、ある意味では「ありえる」状況だ。
急に辞めることだってある。会社に仕返ししようとわざと抱え落ちする奴もいる。そもそも引継ぎに自分の時間を割きたくない人がいるのも分かる。
ただ、彼女の中にそれらの要素は見い出せなかったりだからこそ、彼女自身の「業務への取り組み方」に苦い顔になる。
自分が積み上げてきたことを客観的に判断し、それを次に繋ぐ努力をしなかった点。
日々の業務をその場の勢いや、己の記憶だけで処理してきただろう点。(資料を遡っても参考にならない原因)
10年勤めあげた人間がその年月の中で1度もマニュアルに残そうとしなかった点。
いつ頃に辞める決意をしたかは知らないが、少なくとも一緒に仕事ができないことを見越して年に数回だけの業務(それも彼女しかしていない業務)をまとめようとしなかった点。
それらにとても腹が立つ。
そしてそんな現状が知られていないことも、それに苦しめられている現状に声をあげられない雰囲気なのも、本当に腹が立つ。
まあ、声をあげないのも愚痴をはかないのも、「皆にやな奴と思われたくないから」という理由だから自分もたいがい救えない。
大多数が絶賛する人物を、たいして関わっていない人間が「いや、彼女は酷いですよ」なんて言えない。そんなやな奴になりたくない。そんな見栄と意地。
5ヶ月。
長くて短いこの期間、ひとりで踏ん張ってきた。だがそろそろ限界がきている。物理的にも、精神的にも。
1年間。
仕事の流れを把握するにはそのくらい時間が必要だと皆は励ましてくれる。それは自分でも重々承知だ。けれども、圧倒的に資料がなさすぎる。手順がなさすぎる。フォルダ名もぐちゃぐちゃで、年度の抜けも意図的なのかが分からない。
今。
必死に業務記録を書き起こしている。
来年の自分のために。自分が急に死んでも困らないように。
2年後。
先のことは分からない。目標も思い描けない。
けれどもこれだけは言える。
きっと、マニュアルを作っている。
誰かに引き継ぐためじゃない。自分が効率よく働くためだ。年に数回の仕事にいちいち頭を悩ませたくない。
「明日も来年も、ずっとこの会社で働く」
そう考えてモチベーションを保つ。
「来年もしくは明日、自分はいないかもしれない」
そんな気持ちで丁寧に業務に関わる。
これが理想であり、信念だ。
自分なりの信念を貫いて、自分なりの理想で生きていくしかない。
それが今の自分に残された「不満を乗り越えていく」唯一の方法だと思う。
辞めた人間に苛まれるのは懲り懲りだ。
忘れるためには、思い出さなくていいように自分の基盤を整えていくしかない。
めげずに、しょげずに、くさらずに。
ひとつひとつ、一歩一歩進んでいこう。
ポリシーの殴り合い
ここでは愚痴は書きたくないというポリシーがあった。
しかしながらそのポリシーのせいで「頭の中のモヤモヤを文字にして解消する」というポリシーが蔑ろになってモヤモヤは膨らむ一方だった。
そんなちっぽけなポリシーの殴り合いの結果、愚痴を解禁。言葉遊びを再開。ぽつぽつ綴っていくことにする。
そもそもこんなことを考えるきっかけになったのが、他人のポリシーの殴り合いを見ていたから。
妥協点を探す話し合いをするでもなく、ただただ己の要望をゴリ押しする為だけに言葉の殴り合い。醜かった。他人事だからよく見える。当事者だったら自覚できないくだらない争い。
延々と続く殴り合いを傍観していて気づいたのは、『自分のポリシーを押し通すには下準備が重要』ということ。
どう言えば伝わるか、どう説明すれば納得してもらえるか、どう準備しておけば他人をスムーズに動かせるか。
そういう諸々のことを、多角的に様々な立場からの意見や思考を全て想定し、その上で『いかにすれば己のポリシー通りに進められるか』を考える必要があるようだ。
そこを考えずに「私のポリシーに反する!こう進めろ!」と声高に叫んでも反感を買うだけだ。無駄な、醜い争いを生むだけだ。くだらない。
「『無駄な争いを生まないように進める』
貴方のポリシーであって、私は『自分のポリシーを押し通す』なんです!」と言われてしまったらそれまでの話なのだが、それでも物事にはベターなやり方が確実に存在しているとは思う。
ポリシーを貫き通すのは大変なことだ。
だからこそ下準備が重要だ。
結果は下準備に比例する。
「私の評価を落とすことはさせない!私の理想に近づくように動きなさい」などと『傲慢』なポリシーを貫きたいならなおさら、水面下で下準備を徹底的にするべきだ。さもなくば、無駄に怨みを買うだけだ。ご愁傷様。
そんな気づきを記録しておきたくて、自分自身のポリシーの殴り合いは終焉を迎えた。
ありがたいきっかけだった。めでたしめでたし。
不器用でもいい、少しずつ。
バタバタしていた日々がようやく落ち着いてきた。
連日ブログ更新していたのが随分前のように感じる。実際、4ヶ月も前だった。
心がざわつく時はとことん考え、言葉にまとめたくなる。
あの頃はまさに、もがいて、立ち止まって、振り返って、進む先を探して目を凝らしていた。
そんな日々が懐かしく、また愛おしい。
不器用な自分も好きになれそうなのが、嬉しい成長だ。
生きている形跡を残したくないと思う反面、生きてきた足跡を振り返り感慨深くなる面もある。
相反してはいるけれど、それでもいいと思う。
白か黒かの世界より、グレーもある世界の方が彩り豊かな方で穏やかだ。
誰に怒られる訳でもなく、責められる訳でもないのなら、グレーも赤も青も黄色も、いろんな色を感じられる人間でいたい。
1ヶ月ほど前、思うところがあって手放したものがある。
辛い時に心の支えになっていたものを手放すのは躊躇したが、なんとなく負担になる部分から目を逸らしている自分がいるのが嫌だった。
もっとうまく立ち回れたかもしれない。
普通の人なら気にもかけないことかもしれない。
でも、自分には無理だった。不器用だから。
不器用な自分には不器用なやり方しかできなかった。
けれど、後悔はしていない。
とことん考えて、自分なりに納得した決断だったから。
そんな行動が出来るきっかけを得られたものを手放すのが、自分なりの成長の証だったから。
人生は日々、いろんなことが起きる。
いろんなことが起きて、少しずつ変わっていく。
その中で出来るのは、「自分なりに納得して生きていく」ことだけだ。
不器用でも、納得しながら生きていくんだ。
不器用でも、格好悪くても、笑って生きていられれば、それもまた素敵な人生だ。
今日という日を懐かしみながら、明日へ向かって生きていこう。